倶楽部の歴史
サムライたちの6ホール
Since1958
幾多の困難を乗り越えて誕生した新潟ゴルフ倶楽部。
その背景には、夢を実現するために奮闘した11人のサムライがいた。
1957年(昭和32年)
「新潟にゴルフ場を。」
夢に向かって行動を起こした経済人たち。
1957年(昭和32年)、新潟ゴルフ倶楽部は、新潟を代表する経済人、11名の発起人の名前のもと、結実した。
新発田、聖籠、新津、赤塚などゴルフ場の適地を探しまわったが、条件に叶う土地が見つからない。世間のゴルフに対する認識と理解もまだ冷ややかだった。
最終的に用地として取得にこぎ着けた場所が旧巻町の峰岡であった。しかし、問題は山積みである。渋る地主たちとの交渉、墓地や火葬場の移転問題など幾多の困難が待っていた。
それらを一つ一つ解決して、工事に着工したのが1958年(昭和33年)のことである。
発起人たちは新潟県初のゴルフ場の実現に一歩一歩近づいていることを実感していた。
1958年(昭和33年)
昭和33年10月、6ホールで仮オープン。
はじめてフェアウェーに白球が飛んだ。
ゴルフ場の設計は新潟ゴルフ倶楽部初代理事長に就任した上原正良氏の知人で、当時、ゴルフコース設計に定評のあった農学博士の丸毛信勝氏が手掛けた。「地形、地質も良く、いいコースができる」と丸毛氏は太鼓判を押した。
長雨による土砂崩れにより、工事が遅滞したが、9月にアウトコースの半分が出来上がった。株主の強い要望を受けて10月1日にアウト6ホールで仮オープン。まだ、クラブハウスもなく、近くの公民館の2Fがロッカールームの代わりだった。もちろん、食堂もなく、弁当持参。キャリーバッグはリヤカーを押して運ぶ。今の快適なゴルフスタイルからは想像できないが、それでもプレーヤーたちはフェアウェーにボールを飛ばす歓びを感じていた。
1959-1960年(昭和34-35年)
起伏の激しいインコースには
「軍艦」と呼ばれた名物ホールも。
1959年(昭和34年)、アウトコースが完成。翌年の1960年(昭和35年)の春、待望の18ホールが完成。
一部の地権者の反対にあい、計画変更を余儀なくされたインコースは、急斜面の山の傾斜地を切り開いて作られたため、起伏がはげしく、グリーンが見えづらい。
砲台グリーンにアリソンバンカーの連続など、難易度の高いプレーが必要とされた。特に「軍艦」と呼ばれた15番ホールは狭いフェアウェーを外すとボールが谷底に落ちてしまう。ある意味、名物ホールとなった。
そんな中で、アマチュアゴルフ選手権競技や第1回レディースカップが開催され、新潟ゴルフ倶楽部は地域に浸透していった。
1978年(昭和53年)
先人たちの想いを受け継ぎ、
新潟県のゴルフ界を牽引するゴルフ場に。
1978年(昭和53年)、6.26集中豪雨でインコースに土砂が流出。名物ホールの15番ホールは、幅20メートルに渡って決壊した。この難コースを改善する必要があった。1981年(昭和56年)から3年かけて大改造が行われた。3年の間に台風や火災、2度の大きな土砂崩れなど災害に見舞われながら、なだらかな丘陵コースが誕生し、現在に至る。
近年のゴルフ人口は減少の辿りにある。ゴルフ業界全体が厳しい環境であることは事実である。しかし、いかに多くの人にゴルフというスポーツの魅力を伝えていくかを、今一度原点に立って考え、邁進していかなければならない。それは「ゴルフ」という存在すら人々に知られていなかった時代に、「新潟にゴルフ場を。」と発起した11人の先人たちの想いが今もこのゴルフ場に宿っている、と信じているからである。